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「社会の枠を出て、世捨て人になりたい」サバイバル登山家・服部文祥さん|クレイジーワーカーの世界

「社会の枠を出て、世捨て人になりたい」サバイバル登山家・服部文祥さん|クレイジーワーカーの世界

「自分の仕事が好き」。心からそう言いきれる人は、どれくらいいるのだろうか? 単に賃金を得るための手段ではなく、人生を賭するライフワークとして仕事に打ち込む。結果、一般的な幸せやレールから外れることになっても、おかまいなしに没頭し続ける。そんな、少しはみだした「クレイジーワーカー」の仕事、人生に迫る連載企画。今回お話を伺ったのは、登山家の服部文祥さんだ。
大学生で登山にのめり込み、29歳で山行におけるできる限りを自然の恵みでまかなう「サバイバル登山」を開始。会社員として働きながら、毎月10日前後のサバイバル登山を行う。そんな生活を、もう20年近く続けている。
「サラリーマンになりたくない」。子どもの頃からそう思っていた服部さん。かといって、好きな登山だけで身を立てる覚悟も持てなかったという。そんな自分に葛藤し、くすぶりながらも山に向かい続け、いつしか自分だけのスタイルを確立していった。
現状はベストとまではいかないが、「ベストに近いベター」という服部さんに、やりたいことをやれるようになるまでの道のりについて伺った。

100%安全なことには価値がない

── 山に魅せられたきっかけを教えてください。

服部文祥さん(以下、服部):子どもの頃から野遊びが好きで、高校生になって山登りや冒険に憧れました。大学で山岳部とワンダーフォーゲル部に入り、実際に登ってみたら身体的に向いていると分かった。自分は他の人よりも心肺機能が高くて、山の中で強かったんです。俺はもっとできる、もっとできると、どんどん山の世界へのめり込んでいきました。

── 当時、登山の面白さをどのように感じていましたか?

服部:山に登っていると、自分、個人の限界が人間の限界に近づいている感覚があった。より難易度の高い山、より先鋭的な登山法へと向かっていくほどに、その手応えを感じました。大学生の頃は技術的にも下手くそで、それこそ死にそうな目に遭う確率も高い。でも上達するにつれ、余裕をもって登れる山では新鮮な感覚がなくなるので、どんどんエスカレートしていくんです。

── 実際に危険な目に遭ったことは?

服部:冬に白馬*1の雪道を下降中、2本の亀裂が走り、下の亀裂から大雪崩が発生したとき。あとは、南アルプスのオーレン谷*2で滝から落ちそうになったときが一番地獄に近かったかな。親指サイズの潅木(かんぼく・丈の低い木)を掴んで必死に駆け上がったけど、もし落ちていたら100メートル下に叩きつけられて即死だったでしょうね。それが24歳か25歳くらいのとき。以降も、小さい滑落や雪崩に巻き込まれたりはいくらでもあります。

── 死への恐怖心はなかったのでしょうか?

服部:もちろんありました。でも、誰もが登れるところや、一度登ったところに行っても意味がない。100%安全なことには価値がないと思っているから、恐怖に震えながらも別の山へ行く。

ただ実際に登れると、下山後3日くらいで「あそこも大したことないな」と思い始め、1週間もたてば「次のステップに行かないと」と、焦りのようなものが芽生えます。登山家としての理想像があって、そこにたどり着くために自分を追い詰めていました。理想の自分が常に少し前を歩いていて、ぼけっと時間を過ごしているとその差がどんどん開いてしまい、永遠に追いつかないような焦りを、若い頃は感じていましたね。

── 危険に身を置き続けることで、死を恐れる感覚がマヒしてしまうようなことはありませんか?

服部:それは逆で、生き残れば生き残るほど命が惜しくなる。せっかくここまで積み上げたんだから、もうひとつ積み上げたいという欲だと思います。でも怖い。そういう葛藤は今もあります。

子どもの頃から感じていた「社会に生かされている」気持ち悪さ

── 著書『サバイバル登山家』の中で、“山登りを続ける理由”として「生命体としてなまなましく生きたい」とつづられていたのが印象的でした。

服部:途方もない自然を相手に、自分の持てる力を100%発揮して生き延びる。社会の保護が及ばない場所で、寒い、暗い、怖いを経験しながらうまく切り抜けることで、我々が普段失っている「生物としての身体感覚」が蘇っていきます。生きようとする自分を経験することができるんです。

── 燃料もテントも持たず、食糧を現地調達で賄う「サバイバル登山」を始めたのも、より過酷な条件の中で自然とフェアに向き合い、自分の力だけで生きるためだと。

服部:はい。現代的な装備や道具を使った登山経験を重ねるうち、いつしか本当に自分の力で登っているのだろうかと疑問を覚えるようになりました。以後、人工器具を使わず自分の手と足だけで岩を登るフリークライミングを経て、29歳の時、ほとんど何も持たずに南アルプスの大井川源流に向かいました。

── 先ほど、山を「社会の保護が及ばない場所」と表現されました。元々、社会のシステムの中で生かされていることに違和感があったそうですね。

服部:思えば、それは子どもの頃から感じていました。衣食住に恵まれ、生きることに関して足りないものが一つもない。それは贅沢な悩みなのでしょうが、生きることに必死になれる方が、生命体としての充実感は間違いなく大きいはずです。

その思いをさらに強くしたのは、26歳の時、日本山岳会青年部によるK2*3の遠征に参加したことです。そこで出会った現地のポーター(荷物運び)たちは軽装で、ほぼ自給自足で山と向き合っていた。かっこいいと思いました。国や社会のシステムに守られずに生きている彼らに対し、強い憧れの気持ちを抱いたんです。

現実と夢との間でくすぶっていた20代

── 普段は月刊誌『岳人』の編集部で働いておられますが、昔は就職することにためらいがあったとか。

服部:サラリーマンになりたくないという思いは、小学生の頃からありました。小学校の卒業文集には「農家か漁師になりたい」と書いたはずです。そうはいっても父親はサラリーマンだし、いずれは自分もネクタイを締めて会社に行くんだろうなという、変な諦めのようなものはありましたね。大学に入ってからも社会人として働く姿をイメージすることはできませんでしたが、結局、周囲と同じように就職活動を始めました。

── なぜそこまで就職が嫌だったんでしょうか?

服部:就職することで、やりたいことができなくなる、もっと言えば自分の人生が終わってしまうような感覚がありました。サラリーマンになる=会社に自分の時間を提供して、その代わりにお金をもらうことだから。企業の堅いイメージや、礼儀正しくするとか、そういうことも苦手だった。それは自分が本当に生きたい人生じゃないと。

── 登山の道一本で食べて行こうとは思いませんでしたか?

服部:もちろん考えましたし、本気でシミュレーションしたこともあります。定職につかず登山に打ち込んで、一流クライマーのレベルまで到達するのに、どれくらいかかるのか? そもそも、それまで生きていられるのか?

登山家として本気で活動をした場合、5年後の生存確率はおそらく5割くらいだと見積もりました。それに、知人や親戚からの冷たい視線や世間体も気になる。端的に言えば、びびってしまったんですね。結局は人並みに就職して、休みの日に山へ行って「俺もいつかは」なんて言って自尊心を満たすのが、あの頃の僕の限界でした。

── 結果、山岳関係の出版社に就職し、たまの長期休暇を利用して山に登る生活を続けたそうですね。

服部:その頃は、常に焦りのようなものがありました。登山家としてもっと上を目指したいのに、くすぶっている感覚です。結果を残そうと、手っとり早く登山経歴になるフリーソロクライミングなどを繰り返しながらも、心の中はどんどん追い詰められていく。

── 当時は「日本の山」<「ヨーロッパの山」<「ヒマラヤ」といった登山ヒエラルキーのようなものが今よりも強く蔓延していて、服部さんも「K2やヒマラヤに登らなくては」という焦りがあったとか。

服部:そこから解放されたのは、K2の山頂を踏んだ時でした。それまではアルパン・クライミング*4の世界を追求しようと躍起になり、ヨーロッパアルプスやヒマラヤに登って認められなければと思い込んでいました。しかし、K2サミッター(登頂者)になったことで一気に肩の荷が下りた。登山家としての見栄を気にするよりも、自分なりの登山を極めていこうと、考えを改めることができたんです。

── その後、K2の記録を雑誌に寄稿したことがきっかけで、1996年に月刊誌『岳人』の編集部に転職されます。以降は毎月の校了後に10日ほど山で過ごすという生活を27歳から49歳の現在まで続けてきたと。くすぶっていた頃に比べ、今は理想に近い状況なのでは?

服部:ベストとまではいかないですけど、ベストに近いベターという感じですかね。登山家と並行して文筆家として生きていきたい思いも強かったので、そういう意味では著書を出したり、山岳雑誌の編集者として山や登山について紹介したりすることも一つの自己表現になっています。それとは別に、自分がやりたい登山もできていますしね。

もちろん、もっと売れる本をバンバン出して、好き勝手に山に登るみたいなことができたらいいんでしょうけど、今以上を望んだらバチが当たりそうな気がします。

中心となる命題さえぶれなければ、やり方にはこだわらない

── 過酷なサバイバル登山を続けるために、日頃から心掛けていることや準備していることはありますか?

服部:普段の生活で最も大事にしているのは、やはり健康・体力の維持です。山の中で自分の力を100%出せないと、やりたいこと、イメージしていることを成し遂げられなくなってしまう。目的を達成し、かつ生き延びるためにはトレーニングが欠かせないし、新陳代謝を意識して身体を最善の状態にしておくことが重要です。

── もうすぐ50歳。体力的な限界を感じることは?

服部:短時間で終わる運動なら体力的な衰えはあまり感じませんが、2年ほど前からは怪我をしやすくなったり、不調を感じたりすることが増えました。昔は体力が落ちたらそのぶんトレーニングを増やせばいいと考えていたけど、だんだんとそのトレーニングができなくなっています。まあ、そう簡単にうまくいくならイチローだって引退しませんよね。

── いずれ、サバイバル登山ができなくなるかもしれないという不安は?

服部:クライミングのレベルを落とせば、まだまだできると思います。ただ、それを本当にやる価値があるかどうかですよね。誰でもできるような中途半端なことしかできなくなったら、登山という形にはこだわらなくてもいいかもしれない。

── その時、服部さんは何をするのでしょうか?

服部:社会システムの外に出て、野生環境で生きていくことは山登りじゃなくても可能です。そうだな……究極的な理想を言えば、世捨て人になりたい。

── 世捨て人? 仙人のような暮らしですか?

服部:そう。それはひとつの理想ですね。人間の都市生活が環境に負荷をかけていると、みんな分かっていても自分の生活そのものは、なかなか変えないじゃないですか。でも、僕はやはりちゃんとグローバル社会のシステムの外側に出て、ローカルな生活を送りたい。

本当はさっさと死んじゃうのが手っとり早いけど、そうもいかないからね。だからせめて、自然に害を与えず、そこに存在させてもらう生活をできるだけ早く始めた方がいいのかなと。そう思い始めたのは、わりと最近ですけどね。若い頃は自己表現の方が大事だったから。でも、人生の折り返し地点を過ぎて下り坂になってくると、自分の見栄とか名声とか、そんなことにとらわれなくなってくる。

── そして、本当に大事なものだけが残ると。

服部:そうですね。人生の終わりが意識できると、例えば人間関係も本当に大切な人以外のことはどうでもよくなるから、「こいつとは、もう一生会わなくてもいいや」と切り捨てていける。自分の活動も似たようなところがあって、中心の命題さえぶれていなければいい。その周辺のことは、どんどんどうでもよくなってきています。

取材・文:榎並紀行(やじろべえ) 編集:はてな編集部 撮影:小野奈那子
取材場所:モンベル 品川店ハーベステラス 品川店

取材協力:服部文祥

登山家、作家、山岳雑誌『岳人』編集者。1969年横浜生まれ。東京都立大学フランス文学科卒。在学中はワンダーフォーゲル部に所属。1999年から装備を切りつめ食料を現地調達するサバイバル登山をはじめ、南アルプス・大井川~三峰川、八幡平・葛根田川~大深沢、白神山地、会津只見、下田川内、日高全山などを歩く。第5回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞した『ツンドラ・サバイバル』、第31回三島由紀夫賞候補作『息子と狩猟に』をはじめ、著書多数。

Twitter:@hattoribunsho

*1:長野県と富山県にまたがる白馬岳
*2:山梨県と長野県にまたがる甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷
*3:パキスタンとウイグル自治区との国境に位置する、標高8611mでエベレストに次ぐ高さの山
*4:山岳地域の岩壁や雪山を登る登山スタイル

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