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マジック世界大会優勝からニートを経てシーモンキー販売 超魔術師・Mr.マリックの数奇な人生

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「自分の仕事が好き」。心からそう言い切れる人は、どれくらいいるのだろうか? 単に賃金を得るための手段ではなく、人生を賭するライフワークとして仕事に打ち込む。結果、一般的な幸せやレールから外れることになっても、おかまいなしに没頭し続ける。そんな、少しはみ出した「クレイジーワーカー」の仕事、人生に迫る連載企画。今回お話を伺ったのは、超魔術師のMr.マリックさんだ。
1988年、“ハンドパワー”を携えて突如テレビに現れた超魔術師は、社会現象と呼ばれるほどのブームで日本のマジック界を席巻。その後も、“手力王(てぢからおう)”・栗間太澄(くりま・たすみ)としてバラエティ番組に進出するなど、活躍の場を広げてきた。
現在もサイキックエンターティナーとして、ステージに立ち続けるマリックさん。中学生でマジックと出会い、プロを志すも挫折し、39歳で大ブレイクを果たすまでの、不可思議な縁で結ばれた人生を振り返っていただいた。


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天才少年マジシャンとの出会いから、マジックの虜に


── マジックとの出合いを教えてください。


Mr.マリックさん(以下、マリック):きっかけは、中学2年の時にクラスへ来た転校生です。彼はマジックの天才少年でした。河原の小石を投げて、空中で消してしまうんですから。魔法使いだと思いましたよ。


── それで、すぐにマジックの虜になってしまったと。


マリック:普通にうまい程度だったら「上手だねー」と、適当に褒めて終わりだったでしょうね。“お客さん”になって終わっていたと思うんですよ。でも、あまりにもすごくて、自分でもやりたくなるくらい引き込まれてしまいました。そんな天才がたまたま転校してきて、僕の隣の席になった。改めて振り返ると、不思議な縁だったと感じます。


── そして仲良くなり、マジックを教わるようなったのでしょうか?


マリック:はい。熱中していた剣道も止め、いつもその子に引っ付いて回ってね。彼の父親もマジック好きだったから、プロが使うような道具が家にあるんです。高くて私には買えないから、仕組みだけ教わって手作りしましたよ。買ったものを覚えるより、自分なりに工夫してアイデアを考えることが楽しかったんです。


── それが、マジシャンとしての原点ですか。


マリック:そうですね。あとは、高校生の頃に、実家近くの歯医者にインターンで来ていた若い先生が、マジック業界でも名の通った人だったんです。先生は自分で考えたオリジナルのマジックをやる人で、行く度に新作を見せてくれた。そのうち毎日通うようになり、教わった技を家でトレーニングしていました。こたつに尻型のカビが生えるくらい、熱心にやりこんでいましたね。


たまたま隣の席になった同級生から手品の基礎を学び、たまたま名古屋から2年間の研修に来ていた先生がオリジナルマジックを教えてくれた。この時期、偶然にも2人の一流と出会えたことが、とても大きな財産になったと思います。


── その後マリックさんが歩んだ道のりを考えると、運命的なものを感じますね。高校卒業後は、そのままマジシャンを志したのでしょうか?


マリック:いえ、いったんは就職しました。マジックは好きでしたが、それだけで食べられるとは思えなかったので。当時、開発されたばかりの「瞬間湯沸かし器」を作る工場で働き、マジックは趣味で続けていました。

仕事がつらくて、唯一の楽しみといえば名古屋のデパートで「マジック道具の実演販売」を見ること。当時の工場は危険で過酷でしたから、実演販売の仕事が天国に見えるんですよね。毎日好きなことをやれて、いいなあと。


── その後、ほどなくして実演販売のディーラーに転職されています。


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実演販売のディーラー時代


マリック:毎週通っていたらディーラーさんと仲良くなって、「キミ、そんなに好きならここで働かない?」と言っていただいたんです。その日のうちに工場を辞めて、転職しました。


この実演販売の経験は、超魔術を信じさせる会話術などに生かされていきます。そういった意味でもこの方との縁も、マジシャンになる上では欠かせないものですね。


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世界大会で優勝するも、本場のショーに圧倒され絶望の淵へ


── それからは実演販売の仕事をやりつつ、やはり「マジシャンになりたい」という思いも膨らんでいったわけですか?


マリック:最初は店に来るプロのマジシャンに誘われ、キャバレーでのステージを見に行くようになりました。名古屋っていうのは面白い場所でね、東京と関西のマジシャンが集まってくるから両方のスタイルを見られるんですよ。東京のスマートでシリアスなマジックはかっこよかったし、関西の奇術師やマジシャンはユニークだった。それに、スポットライトを浴び、生バンドをバックにマジックをするプロはまさにスターで、憧れました。


── 自分もプロになり、同じ舞台に立ちたいと。


マリック:はい。ただ、どうすればプロになれるのか分からなかった。そこで、当時人気絶頂だった初代・引田天功さんの師匠である、松旭斎天洋先生を訪ねました。先生がおっしゃったのは「プロを目指すなら、引田天功くらいの一流を目指さないと駄目だ」ということ。マジックで食べていければ十分と思っていた私に対して、「そんな半端な考えなら無理だから、やめておきなさい」とハッキリ言ってくださったんです。


── その言葉で、逆に火がついた。


マリック:そうですね。じゃあ一流って何だろうと考え、とりあえずはコンテストに出て「日本一マジックがうまい人」になろうと決意しました。まず東海地区の大会で評判を上げ、全国大会に推薦してもらう。そして、世界に打って出て賞をもらう。そんな目標を一つひとつクリアし、21歳でハワイの世界大会に出場しました。クロースアップ部門という客前で芸を披露する種目で、優勝することができたんです。


── 21歳で世界大会優勝。ものすごく順調ですね。


マリック:天狗になっちゃいますよね。世界大会で箔も付いたし、帰国後はどこかのプロダクションに入って世に出ようと思っていました。でも、その直後に鼻をへし折られましたよ。


── 何があったんですか?


マリック:大会後の夜にマジックショーがあったのですが、その華やかさに圧倒されてしまったんです。本場・ラスベガスで活躍するマジック界のスターが登場し、一般のお客さんの前で披露されるショーです。ホテル内のクローズドな空間で行われる大会のマジックとは、音、照明、演出など全てにおいて別物でした。とんでもなくお金をかけていて、セクシーだし、バイタリティーに溢れていて本物のエンターテインメントでしたね。それを見た時に、自分が井の中の蛙だったと思い知りました。100年かけても、私にはこんなショーはできないと。


── でもマリックさんは世界一になったわけですし、技術的には決して劣っていないのでは?


マリック:マジックの技術云々ではなく、まるで別次元の世界に感じてしまったんです。一般の住宅を建てる大工がビルを造れないのと同じですよね。そのショーを見た直後は劇場の外にしゃがみ込んで、涙が出るくらいショックを受けましたよ。描いていた夢が一気に遠ざかってしまった、自分が歩いてきた道がそこへつながっていなかった絶望感を抱きました。


その後、日本に帰ってからは実演販売の仕事も辞めて、実家のある岐阜 で1年くらい何もせずぶらぶらしていました。その時期は本当に最悪でしたよ。


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シーモンキーの販売員から始まった、プロマジシャンへの道


── 世界大会から帰国後は、どんな生活を?


マリック:実家暮らしとはいえ無職でしたから、どんどんお金がなくなってくるわけです。そこで、実演販売時代の先輩ディーラーを頼って、土日だけアルバイトをさせてもらうようになりました。お金がないから、その人の家に居候させてもらってね。マジックでプロとしてやっていく自信もないし、かといって他にやりたい仕事もない。今でいうニートですね。完全にどん詰まりでした。


── では、再起のきっかけは何だったのでしょうか?


マリック:きっかけになったのは「シーモンキー」でしたね。


── シーモンキーというと、アルテミアという小エビを品種改良した生物ですね。水だけで育成できる「謎のペット」として人気を博しました。でも、なぜシーモンキー?


マリック:マジック道具を扱うテンヨーという会社が、手品だけじゃ儲からないからシーモンキーも扱うことになり、大丸東京店で販売員を探していたんです。すぐに手を挙げましたよ。お金も住む場所のアテもないまま、関東方面へ遊びに行く友人の車に同乗し、名古屋から上京しました。


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デパートでの販売員時代


マリック:最初はシーモンキーを売っていたんですが、しばらくしてテンヨーさんが新しく出した手品セットも置くようになったんです。ビギナー向けの、8つの手品が入った詰め合わせ。これが爆発的に売れました。当時、子どもにも簡単にできる手品は珍しかったし、東京の八重洲という場所柄もあって、孫への東京土産を探している人にぴったりハマったんでしょうね。


── 思わぬところから、またマジックにつながりましたね。


マリック:はい。それからは大丸東京店だけでなく、渋谷の東急百貨店や新宿の伊勢丹など、売り場を拡大していきました。収入も安定したし、結婚をして子どももできたので、プロになるという夢はほとんど消えかけていましたね。20代半ばから14年くらい、ずっと実演販売をやっていました。


── 30代半ばには、ご自身のマジックショップも開店されています。


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マジックショップ“マリック”


マリック:デパートで実演販売をやりながら、自分でも五反田でマジックグッズの専門店を始めました。「マジックショップ“マリック”」ですね。ちなみに、ここで初めて「マリック」を商標にしたんです。当時、世界の手品を集めた専門店は珍しかったから繁盛しましたよ。名古屋にも支店を設けたりしてね。


ただ、お店が軌道に乗ってくると、また別のことをやりたくなるんです。そこで、閉店後の夜の時間を使い、マジックショーの舞台に立とうと。


── 40歳間近にして、マジシャンに再チャレンジですね。


マリック:今回は自分の店という収入の基盤もあり、地に足のついた挑戦だったのがよかったんでしょうね。変に焦らず、自分のマジックをちゃんと見てくれる場所を探すことができました。目を付けたのがホテルのラウンジです。品川のホテルパシフィック東京やホテルオークラなど、月に10本くらいステージに立つようになりました。


── 「ハンドパワー」という言葉を使い始めたのもこの頃ですか?


マリック:「ハンドパワー」と「きてます」は、実はお客さんが言い出したのがきっかけなんです。


ホテルでのマジックで1人のお客さんを舞台に上げて「今からパワーを送りますよ」と言うと「なんかきてるきてる」と反応するんですね。ただ客席側にいる観客は何がきてるのか分からない。「一体何がきてるのか?」と舞台上のお客さんに質問がきたんです。お客さん自身もどう答えればよいか分からなかったのでしょう、「……ハンドパワーですか?」と僕に聞くんです。「そうでしょうね……」と答えると、みんな面白がって「ハンドパワーだ!」と盛り上っていました。


当時、ホテルのラウンジでやるマジシャンは他にいなかったから、もの珍しかったんでしょうね。テレビ局のディレクターや放送作家の方もよく見にきてくれましたよ。


── そこで、テレビの世界とのつながりができた。


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当時の宣材写真


マリック:ホテル日航大阪でマジックをしていた時に関西テレビのプロデューサーと知り合い、「深夜番組でマジックをやってくれ」とオファーされました。それが初めてのテレビですね。以降、1年くらいレギュラーで出演しました。その1年間は必死に練習して、カメラで寄られても耐えられる、どんな角度で撮られてもタネがばれない「テレビ用のマジック」を習得したんです。関西ローカルの深夜番組で、みっちり試行錯誤できたのが大きかったですね。この頃「超魔術」の礎が完成しました。その後、全国ネットの番組に進出した時に、準備万端で臨むことができましたから。


── それから「11pm」*1や日本テレビの「木曜スペシャル」*2に出演され、一気に大スターになりました。


マリック:「11pm」や「木曜スペシャル」では最初からほぼ完成形が出せて、テレビ的に面白い番組になったんですよ。カメラに向かってただ手品をやるだけじゃなくて、センターにタレントを置き、そのリアクションも込みで魅せる。それが新しかったんでしょうね。


── 当時は多忙な上、相当な重圧もあったと。


マリック:収録が近づく度に追い込まれていました。自分で出し物や演出を決めるのは時間がかかりますし、いつも新しいネタを要求されますから。常に試されている気分でしたね。そこで「できません」と言うと縁が途切れてしまうから、毎回必死でした。


ただ、そうやって追い込まれることで、よいものができたとも思っています。人間は楽をしたい生き物で、高いハードルと締め切りがないと本気になれないですから。


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これからは自分がやって見せるより、みんなに体験してほしい


── ただ、その後は体調を崩され、しばらく休養されたそうですね。


マリック:ストレスから顔面麻痺を発症し、テレビを離れて静養しました。2年くらいして少し顔が動くようになった頃に、テリー伊藤さんから電話をいただいたんです。「しばらく見ないけど、どうしてる?」と気にかけてくださってね。病気のことや復帰後もなかなか仕事がないことを話すと「だったら僕の番組に出てよ」ということで、ASAYANに誘ってもらいました。テリーさんは「バラエティだからマジでやっちゃダメだよ」と肩の力を抜く言葉をくださり、何も知らない僕にバラエティ番組の流儀や面白さを教えてくださった恩人です。


── そこからテレビに復帰し、謎の郵便局員「栗間太澄(くりま・たすみ)」としてもバラエティ番組に出演。ネクストブレイクを果たします。


マリック:しばらくテレビから離れていたから、何か新しいキャラを作ろうということで生まれたのが栗間太澄です。私が逆転できたのは2年間のブランクがあったからこそ。人生ってよくできていて、悲劇が起きても必ず次によいことがある。金持ちには金持ちなりの不安もあるし、うまいこと精算されるようバランスが取れていると思います。病気はつらかったけど、そのおかげでタバコもやめられましたしね(笑)。


── ポジティブですね。


マリック:苦しい時でもポジティブに何かを続けていれば、次につながると思います。僕も21歳の頃に本場のショーを見せつけられて挫折したけど、それでもマジックの世界に関わってきた。結果、39歳になって全く違うところからプロデビューすることができたわけですから。同じところをぐるぐる回って停滞しているだけに思えるような時期もありましたが、一生懸命回っていたから誰かが引き上げてくれたんでしょうね。やり続けていると、不思議と次につながる出会いが生まれるはずです。


── 現在はライブ活動がメインということですが、今後やってみたいことはありますか?


マリック:これまでは私が不思議なことをやり、見る人を驚かせてきました。これからはそれだけじゃなくて、みんなに不思議なことを「体験」してほしい。例えばスプーン曲げ。多くの人は曲がるはずがないと思っていますが、覚醒催眠で「絶対に曲がる」と信じ込ませると誰でもできてしまうんです。


── 確かに、スプーン曲げに限らず、はなから自分には無理だと決めつけていることは多いですね。


マリック:みんな、自ら自分の限界を作ってしまっていると思うんです。でも、思い込みのタガを外すと意外とできてしまうことって多いんですよね。人の心をひっくり返すには、体験が一番です。そうすれば、昨日まで白だと認識していたものを黒に変えることだってできる。不可能を可能に見せるマジックを通じて、楽しみながらスイッチを切り替えるお手伝いができたらうれしいですね。


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取材・文:榎並紀行(やじろべえ) 編集:はてな編集部 撮影:小高雅也

取材協力:Mr.マリック

 

1949年岐阜県岐阜市生まれ。1988年、「11PM」衝撃的にデビュー。翌年、「きてます」「ハンドパワー」等の言葉と共に超魔術というジャンルを生み出す。その後、TV・CM・舞台・舞台演出等にて活躍。特にTV放送では高視聴率を獲得する。2019年に超魔術誕生30周年を迎え、進化を遂げた圧倒的なパフォーマンスで人々を魅了し続けている。最新の著書『超魔術の裏技術』(ワニブックス)が好評発売中。

 

*1:日本テレビと読売テレビ制作の1965年から1990年まで約24年半にわたり放送されていた深夜番組。日本初の深夜のワイドショーでもある

*2:日本テレビ系列で1973年から1994年にかけて木曜日に放送された単発特別番組枠。「Mr.マリック超魔術シリーズ」は全8回放送