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「出会い」がもたらす影響は計り知れない。人との出会いに限らず、一つのコンテンツとの出会いが人生を変えてしまうことすらある。人生における座右の書、生きていく糧となった映画や音楽。あの頃の自分に影響を与えてくれた愛する作品(=バイブル)を、自身の生き方や人生と共に紹介してもらう連載企画「私のバイブル」。
今回「バイブル」を紹介してくださるのは、プロ講師・著述家の伊藤賀一先生。「教室が揺れる」と評される爆笑講義を行う、日本一生徒の多い社会講師として人気を博している。さらには、43歳で大学を一般受験して見事合格。現在、早稲田大学の3年生として学業に勤しみながら、文筆業やリングアナウンサーなどマルチに仕事をこなす伊藤先生の人生における「バイブル」とは?
私は第2次ベビーブーム、“団塊ジュニア”世代として1972(昭和47)年に京都で生まれました。幼少時から空手や水泳など運動ばかりしており、読書以外の机上の勉強はサボっていたら、通知表は平均値を切る事態に。しかし、中2の11月から一念発起、学校内で行われる業者テストで高得点を取り続けたことと、水泳部でそこそこ活躍していたこともあり、ある高校から「特進クラスに入り、勉強を続けながら水泳もやりませんか?」と推薦入試のお誘いを頂きました。
「人から必要とされる場所」があることのうれしさをこの時に痛感したのですが、すでに志望校(洛南高校)を決めていたのでお断りし、「自分の行きたい場所」に進みました。勉強も部活もこちらの方が厳しく、強い高校でしたが、自力で何とかしてやると思いました。当時、影響を受けていたのが北杜夫さんの作品群です。
高校入学前、洛南高校の課題図書に『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫、現在は新潮文庫)が選ばれていました。北杜夫(本名:斎藤宗吉)は、歌人・医師の斎藤茂吉の次男で、芥川賞作家です。親譲りの芸術センスと、本格小説家としての確固たる実力。父と同じく精神科医でもあり、文・理ともにバランスがいい人が書く軽妙かつ絶妙なエッセイにしびれました。何より「人から必要とされる」医師を務めつつも、「自分のやりたい」作家を主業にしている。
彼は旧制松本高校を経て東北大医学部を卒業しています。ハチャメチャな寮生活をともなう旧制高校時代(現代でいう高校3年~大学2年)を描いた自伝風エッセイの本書と、その土台ともいえる『或る青春の日記』(中公文庫、絶版)には、大物歌人・医師である父の存在を意識し、アイデンティティーの確立に七転八倒しつつ作家への道を決意していく過程が描かれています。揺れに揺れる青年期の葛藤(コンフリクト)をこれほど正直に捉えた作品群はないと思います。自分も、「将来、物を書く人になろう」とまで思わされました。
高校に入学してすぐに、当時20数巻まで進んでいた栗本薫さんの『グイン・サーガ』シリーズ(ハヤカワ文庫)にハマりました。中学の時からゲームブックやRPG(ロールプレイングゲーム)で剣と魔法の世界に魅了されていた私は、当時まだ30代半ばだった女性作家の紡ぐ物語が楽しくて仕方ありませんでした。娯楽作品は「キャラが立っている」ことが必須条件だと思いますが、同時に「ストーリーの骨格がある」状態も維持されていたので、その才能に嫉妬すら覚えました。
彼女は作家「栗本薫」、評論家「中島梓」の筆名を使い分け(その他に本名+結婚後の改姓もある)、SF、ミステリー、時代小説、耽美小説などさまざまなジャンルの作品を書き、論じ、舞台をやり、バンドを組み演奏し、テレビの人気クイズ番組にもレギュラー出演されていました。
作品中のキャラ、特に私の大好きなイシュトヴァーンやマリウスといった青年は、世界中を旅し、余人に代えがたい経験を積み重ね、運命や宿命に翻弄されつつも、軽やかに(時に冷酷に)、たくましく生きていきます。
著者である彼女こそが、『源氏物語』の紫式部よろしく性別すら超越し、キャラに憑依して「物を語る」。そしてそれは長編小説のギネス記録を更新し、当初予定の100巻を通過してもまったく「終わらない」(物語が終わってしまうのは残念すぎますから)。しかも他の大量の仕事と同時並行で、結婚もして子どもまで育てている。
なんて素敵なんだ、「一人で複数の人生を生きることができる」と気付かされました。
将来、彼女と同じ早稲田大学で学ぼう、そしていつか。自分も「物を語る」(文章でも講義でも何でも構いやしない)ようになったら、中学の時に憧れた北杜夫さんと彼女のもとにだけは、ぜひ訪ねよう。それもファンとしてじゃなく、仕事相手として対談だ。
また、作中のキャラのように、故郷を捨て旅に出て、いろんな人に逢おう。旅先で故郷を想い、出逢っては別れた人を想いながら、たくましく生きていくんだ。
高校生の私は、そのような数々の約束を自分自身に課しました。だからこそ早稲田を志望校に設定し、上京を目指したのでした。そしてその先には旅がある、東京で留まるつもりはない、と思いつつ……。
人前で話すことが好きで、社会科が得意だった自分は、フリーランスとして話したり、モノを書いたり、旅をしたりする最短距離として、まずは予備校講師を目指しました。この仕事は、教師などに比べて稼げ、出版のチャンスもあり、何よりも自由で多様な働き方ができるイメージが強かったからです。しかし、学歴(学部卒)や学校歴(法政大卒)が、予備校業界でやっていくには少し足りない。だから、とにかく「スタートの速さ」と「経験値」を重視しました。早稲田は落ちてしまいましたが浪人せず、大学入学前から京都の塾で授業し、上京・入学後は4年間ほぼ1日も休まず、塾や予備校の講師、家庭教師などに打ち込みました。
そして、新卒で「有名予備校のカリスマ講師の内弟子になり、その紹介で業界に入り込む」という戦略を考え、学歴と学校歴のハンデを跳ね返そうとしました。当時、東進ハイスクールの看板英語講師の一人だった永田達三先生の私塾に履歴書を書き、採用試験を受け、その意図を正直に言ったら、教え子でもないのに私塾に採用してくれました。
その代わり、2月の採用試験当日の夜から勤務開始。あらゆる仕事をし、売り上げを立てました。そこで、誰よりもスタートが早い、学生時代の膨大な経験が役立ったのです。
その甲斐あって、新卒1年目の秋に東進ハイスクールへ紹介状を書いてもらい、22歳という最年少で講師としての採用試験に合格しました。その私塾の正社員(2年後に責任者=全社員の筆頭)と並行して、25歳で東進の全国向けテキスト作成を一人で任され、26歳で衛星放送授業に出て、というふうに業界の最年少記録をどんどん更新していったのですが、これはよくなかった。仕事は楽しかったのですが、あまりにも簡単に目標をクリアしてしまうので、物足りなさを感じてしまったのです。
また、自分にはカリスマ性が全くないことにも気付きました。東進で、他予備校から引き抜かれた百戦錬磨の超一流の先生方と同じ生徒を担当すれば分かります。予備校の内にいる生徒を気持ちよくし、アンケートで一番を取ることはできても、外から集客はできない。
このままでは、一流にはなれても超一流にはなれない、と思いました。
私は若さと勢いだけが売りのスターダスト、星くずでした。
30歳の時、「この仕事(だけ)の延長線上に自分の人生はない=いつまでたっても北杜夫・栗本薫と対談できない」と判断し、師匠の永田先生に話をして私塾を辞めることにしました。この時、「紹介をいただいた東進も辞める」「東進に講義映像が残る間は、他の予備校に出ない」という、私にとっては苦しくも、当たり前の筋を通したことがよかった。後述しますが、「苦しくても責任を取れば、人はより良い方向に変われる」体験をすることになります。
衛星放送講義では各地に住み、さまざまな背景をもつ生徒さんに向けて授業をしているクセに、見たことがない場所や、経験したことがない仕事が多すぎました。実体験の量が圧倒的に足りない自分と決別するため、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンやマリウスのように、あてのない長い旅路へと向かいました。
ほぼ一文無しになった私は、住み込みで働きながら日本全国の遺跡や名所を廻り、各地で肉体労働・水商売・温泉旅館・自動車工場・うなぎ屋・飲食業・営業などの業務を経験。41日間の四国遍路まで終え、33歳で三重県桑名市の「ナガシマスパーランド」という遊園地に勤務している時、年収は3年連続の180万円でした。
お金がない中、冬の寒い日は本を片手にたまに桑名駅前でうどんを手繰ったものです。そんな時に出逢ったのが、泉鏡花の小説『歌行燈』(岩波文庫)。
私は旅した土地や自分の就いた職業にゆかりある作品を読むことを心がけており、舞台が桑名のうどん屋と料亭であるこの作品と運命的に出逢えました。文庫本を開き、麺を手繰ったそのうどん屋の名前こそが、この作品にあやかった「歌行燈」だったのです。
短い作品ですが、衝撃を受けました。文章の美しさと、主人公の責任の取り方に。泉鏡花は、明治中期、当代随一の書き手とされたあの尾崎紅葉(代表作『金色夜叉』)の弟子です。「スター」の下で薫陶を受け、「スターダスト」として非力を感じたこともあったでしょう。しかし、そこから這い上がり、『高野聖』で名を上げ、これほどの文章を書く大作家になった。
また、この作品の主人公、能役者の恩地喜多八は、若い頃、スターの養父の下で天狗になり、大失敗しています。その責任を取り、流浪の門付け(家の門前で演奏などの芸をし、金品をもらう芸人)になるが、ラストシーンで立ち上がり見事に復活する。
作者と主人公がともに自分自身に重なり、私も「本来、自分の天職と信じる仕事に戻るべきだ」「立ち上がり勝負すべきだ」と思い、寮に走って帰りネットで調べてもらったら(すっかり流浪してネット環境すらなかったのです)タイミング良く東進の自分の映像講義が案内から消えていました。
あの時決意した「東進に講義映像が残る間は、他の予備校に出ない」という義理を果たし、天職と気付かされた講師という職業にまたチャレンジできる。それは筆舌に尽くし難い喜びでした。
翌日、職場である遊園地の課長や課長代理に「3月で辞めて東京に戻ります」と伝えると、「その方がいい、本来の場所に戻りなさい、応援しているよ」と言われ、思わず泣きそうになりました。お二人には今でも著書が出るたびに報告しています。
東京に戻り、34歳でさまざまな採用試験を受けたのですが、通過はしても「東進クビになったんじゃないの」「あんな条件いいとこ辞める人はいないよ」という扱い。しかし、静岡に本社のある秀英予備校の役員の方だけは「筋を通されたんですね」「3年半、よい経験をなさいましたね」と言ってくれました。そして、なんと東進時代よりも高い単価で採用してくれたのです。
本来の自分が輝ける予備校の教壇という場所に戻れたのは「苦しくても責任を取ったから」でした。「東進の映像が残っているうちは他の予備校に出ない」は、やはり正解でした。
秀英予備校からは「編成の都合上、初年度は週1回しか授業が設定できない」と言われました。それでも採用してくれた気持ちに意気を感じた私は、新宿のホテルで週6日働くことにし、予備校講師としての露出を週1日の秀英に絞りました。義理を通すべきだと思ったからです。これも正解でした。どんどん担当授業は増えていき、2年目で収入は5倍になり、6年目には10倍を超えました。
※余談ですが、後に東進もスカウトに来てくれました。「きれいにお辞めになられたので」と評価してもらったのです。今でも感謝しています。
スタディサプリで同僚の岡本梨奈先生(古典)と
その6年目、40歳の時、リクルートが教育関係の新規事業「スタディサプリ」を起こし、秀英で知り合った旧知の先生がスタートアップに参加されていました。その肘井学先生が、同じ英語の関正生先生(実は永田先生の私塾でも一緒だった3つ年下の超人気講師)と共に、社会科の私に声をかけてくれたのです。「自分はこの事業に命をかけています。お二人に手伝ってほしいです」とすごく熱心に。
帰京後に拾って頂いた秀英に恩義を感じていましたが、やれることはやり尽くしていました。それに、採用していただいた役員の方はすでにいらっしゃいませんでした。
私にとって、秀英は「必要とされる場所」。今回のリクルートも「必要とされる場所」。しかし、それに加え「自分の行きたい場所」でもありました。新規事業の社会科の立ち上げメンバーで、まっさらの状態から始められる。うまくいけば、「日本一生徒数の多い社会科講師」という唯一無二の存在になれる。これはもはやスターダストではありません。
「スタディサプリ」では、講師は業務委託(パートナー契約)です。これで私は、個人事業主として完全にフリーランスとなりました。「労働者」枠ではないので、労働基準法など各種労働法の保護の対象ではありません。
常にステークホルダー全てに対し結果が求められる、教育業界という池ではなく、海を連想させる大企業の厳しい仕事の中で出会ったのが、こうの史代さんの漫画『夕凪の街 桜の国』(アクションコミックス)でした。
話題になった映画『この世界の片隅に』でも有名なこうの史代さんは、締め切りが守れないタイプらしく、あとがきでよく担当者に謝られています。父の知り合いだった手塚治虫さんもそうでしたが、私は締め切りに追われヒーヒー言うことが格好良いと思ってしまうフシが昔からあり、フリーランスとして一番大事な「納期」を守れないことが多く、すごく悩んでいました。
そのような時、太平洋戦争期の広島を扱った彼女の一連の作品を読み、「(敗戦国である)現状を受け入れる」ことと「納期に七転八倒している人が素晴らしい作品で結果を出している」こと、さらに「みっともない一面も見せつつ、仕事に挑戦する」ことを学びました。
シアタープロレス花鳥風月リングアナウンサーの様子
だから私はいろんな仕事を手当たり次第に受けます。たとえノーギャラや安いギャラでも、チャンスが広がりそうなら受けます。プロレスのリングアナウンサーやラジオのパーソナリティー、シニア施設での授業や司法試験予備校、企業の商品PR etc……。
0を1にする大変さも知っていますし、1を100にする自信もあるからですが、偉そうなことを言いつつ、この原稿も1日遅れで書いています……すみません。
さて、「スタディサプリ」に参画して3年たった43歳の時、また「この先に自分の未来はない」というレーダーが頭の中にぴょこんと立ち、それに従うことにしました。「早稲田落ちたままだとおかしいだろう」と。
シニア施設から子どもまでを対象とする今の仕事柄にピタリとくる、早稲田大学教育学部の生涯教育学専修を、推薦や特殊な入試制度を使わずあえて一般受験しました。「苦しくても、責任を取れば人は変われる」ですから。
25年前に落ちてしまった志望校に晴れて合格し(気持ちよかった……)、現在3年生として通っています。3歳の娘と1歳の息子に恵まれ、収入も安定し、特に不満はありませんが、この先も挑戦を続けたいです。
しかし、私には一つだけ後悔していることがあります。2009年に栗本薫さんが56歳で、2011年に北杜夫さんが84歳で亡くなられたことです。
間に合わなかった。
私は、問題集を2010年に、初の文庫本を2011年、一般書を2013年、新書を2018年に上梓しています。自分が世に出るのが遅かった……。
転職などを迷われている皆さんには、最後に一つだけ言っておきたいです。迷っている暇があるなら行動した方がいい。時間は待ってくれない。その際、気を付けてほしいのが、「自分の性格を根本から変える必要はない」ということです。そのままの自分で、自分が輝ける場所に行く。その場所は、「自分の行きたい場所」であるはず。そして、そもそも「一人で複数の人生を生きることができる」んです。何を迷うことがありますか。それでも正直、怖いでしょう。いいんですそれで。それがそのままの自分なのですから。
「怖くても、動こう」。
私も、4つ年上のこうの史代さんには、近い将来、ビビリながらも堂々と会いにいけるような自分になっていたいと思います。
編集:はてな編集部
著者:伊藤 賀一
1972年京都生まれ。リクルート運営のオンライン予備校『スタディサプリ』で日本史・倫理・政治経済・現代社会・中学地理・中学歴史・中学公民の7科目を担当する「日本一生徒数の多い社会講師」。43歳で一般受験し、2018年現在、早稲田大学教育学部生涯教育学専修3年に在学中。ラジオパーソナリティー、プロレスリングアナウンサーを務めるなど、その複業術も注目を集める。最新著書『ニュースの“なぜ?”は日本史に学べ』(SB新書)。
Twitter:伊藤賀一(がいち/プロ講師・著述業) (@itougaichi) | Twitter
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