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昔話の「成功事例」は現代ビジネスにおいても役に立つのか?|至高の無駄知識 (寄稿:畑中章宏)

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利益を追い続ける社会の中では、有益なものに時間を費やすことが正しく、利益に直結しないものは無駄であると言われがちである。しかし、一見すると「無駄」と言われてしまうものの中に、実は新しい発見や有益となり得る知識が存在するのではないだろうか。

多くの人が通り過ぎてしまう無駄知識の中に希少な価値を見出し、その分野を極めし方々に、人生を豊かにする「無駄知識」を紹介してもらう連載企画「至高の無駄知識」。今回は、災害、妖怪、民話と最新のテクノロジーや文化を組み合わせ、縦横無尽な視点で現代を紐解く民俗学者であり、作家としても活躍する畑中章宏さんに、昔話の「教え・教訓」は、現代のビジネスに役に立つのか? というテーマで執筆いただいた。

民俗学者が「昔話」を扱うその理由


「民俗学」とは、文字に書かれた歴史のなかに埋もれている庶民の生活や心の在り様を掘り起こし、その持続性を探る学問である。日本民俗学の創始者とされる柳田国男は、その扱う対象を「有形文化」、「言語芸術」、「心意現象」の3種に分類した。


有形文化とは、衣服・食制・住居・労働・誕生・婚姻・葬制・年中行事など、言語芸術とは言葉、諺・謎、語り物・昔話・伝説・民謡など、心意現象とは妖怪・幽霊、禁忌・占い・呪(まじない)などである。このうち言語芸術は、口頭によって伝承されてきたもの、つまり文字によって記録されることなく口伝えで残されてきた、芸術あるいは表現である。


言語芸術に含まれる「昔話」や「伝説」は、民俗学にとって大変重要な研究対象である。こうした口承文芸には、過去に生きてきた人びとの経験、そこから導き出された意識や観念が、寓話化ないし抽象化された上で表現されているからである。


なお「昔話」と「伝説」の違いは、昔話が「むかし」「あるところに」という不確かさをもとに語りつぎ、時代や場所を明確に示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」などの普通名詞が多いのに対し、伝説は時代や場所、人名をある程度特定して語られたものである(本稿では伝説とされる事例の一部も活用していく)。


民俗社会と現代社会とでは、宗教や信仰に対する向き合い方をはじめ、価値観が異なる部分も大きい。人生観や死生観、幸福に対する考え方、また経済や労働についての捉え方などに関しても同様だろう。しかし、昔話に潜在している「民俗的叡智」のなかには、21世紀を生きる私たちの生活になにかしらの示唆を与えるものもある。


本稿に課せられているのは、民俗社会における経験を抽象化した昔話の「経験」や「記憶」が現代に役立つか、という問いかけに答えることのようである。特に現代のビジネスについて解答を求められているのだが、こうした問題提起に十分応え解決できるものか、いささか心もとない。


しかし、伝承のなかの立身出世や栄達(高い地位、身分を得ること)、労働や報酬に関する表現に、現代の経済行為に参考になることが隠されていないかを微力ながら探っていきたいと思う。

さまざまな「長者伝説」


昔話のなかには、思いがけない交換によって利益を得ることを主題にした「致富譚(ちふたん)」と呼ばれる一群の伝承がある。このうち、貧しい男が偶然に幸運をつかんで裕福になる「長者伝説」は、全国に広く分布しているものだ。長者伝説で最もよく知られるのは「わらしべ長者」だろう。


貧乏なひとりの男が、働いても働いても暮らしが良くならないため、仏にすがったところ、わらしべ(藁の茎)を手に入れる。下駄の緒が切れ困っている女を見てわらしべをやると、お礼に三年味噌をもらう。刀鍛冶が刀をつくるのに必要だというので、三年味噌をやると、こんどは刀をもらう。刀で狼を防いだところを見ていた男に雇われ、のちに長者となった。


「わらしべ長者」の原型と思しき話は、平安時代後期に編まれた『今昔物語集』のなかの「大和国長谷観音にまつわる説話」にもみえている。


「最初に手に入ったものを大切にせよ」という観音のお告げに従い、つまずいたとき手につかんだ藁に、飛んできたアブを捕らえてくくりつけた。そのアブをミカンと交換し、布、馬、田と交換していき富み栄えた。


という話である。


仏の霊験譚(れいげんたん・神仏が示す不思議な感応や利益の話)としてみれば、前近代的な筋書きだが、「物々交換の結果、些細なものから大きな成果を得た」というふうに解釈してみた方が興味をそそる。


つまり、現代の市場でも一般的なように、価値が等しいもの同士が交換されるわけではないことを、「わらしべ長者」の昔話は示しているとみることもできる。


また「炭焼き長者」も、民俗学の世界では知られた致富譚のひとつである。貧しい炭焼きが運に恵まれた女性と結婚することで、財宝を発見し長者になるというあらすじだが、この話には「初婚型」と「再婚型」がある。


初婚型は、身分のある娘が占いによって炭焼きに嫁ぎ、夫は妻の教えで黄金の価値を知り富を得るというもの。再婚型は、福分(善行・修行の結果、形として得ることができた利益・幸福)のある妻を追い出した男が落ちぶれ、その妻が再婚した炭焼きが長者になるというものである。


単純化すると、結婚相手によって「経済的成功」が左右されてしまう、ということになりそうだが、配偶者に限らず、知識や能力を持つ相手を見極める「人を見る目」が人生を左右する、と解釈することができるかもしれない。


例えば、会社の共同経営者やビジネスパートナーを選ぶ場合などを考えてみれば、これは現代の経済活動にも置き換えてみることができそうだ。今も昔も「長者」になるためには、人を含めた「価値」を見極める力が重要なのである。

「はたらきもの」と「なまけもの」


昔話でしばしばみられる対立軸に、主要な登場人物ふたりが「はたらきもの」と「なまけもの」である場合がある。「山津波」という上州(群馬県)の昔話にも、そうした対照的な兄弟が出てくる。


昔あるところに木こりの兄弟がいた。兄ははたらきもので、弟はなまけものである。ふたりは毎日山へ出かけては、木を切っていたが、弟は怠けて横になっている。すると、眩しい光とともに白髭の老人が現れる。老人は「ここにあるクルミの実のうち、どちらか白い実の入っていた者に小判のありかを教えよう」と言う。弟が先にクルミを取り、石で割ると中には黒い実が入っている。兄が残っていたほうのクルミを割ると、中には白い実が入っている。弟は悔しがったが、兄は「小判は明日一緒に掘り出そう」と言って、弟に小判のありかを教える。


その夜、兄が寝込んだころ弟はこっそり起き出し、小判が埋めてある山神の祠に向かう。夢中で掘っていると大風が吹き大雨が降りはじめる。弟が小判の入った瓶を掘り当てたそのとき、山頂に雷が落ち、轟音とともに山津波が起こって、弟も小判も呑み込んでしまう。


「なまけもの」の弟が、「はたらきもの」の兄が獲得すべきものを横取りしようとして、死に至るのだ。大災害によって報いを受けるのは、「天罰」がくだったことを意味するであろうし、「天」や「神」のような存在が、日常的な行いを注視していることを示唆する。


現代における「人事評価」になぞらえなくとも、仕事を遂行する際に、周囲の目を気にすることは、昔話の世界でも現在の社会でも変わらないのである。


しかし、昔話には「なまけもの」が知恵を働かせ、「うまく」やって、裕福になるケースもある。例えば誰もが知っている、「三年寝太郎」などがそれだ。


仕事にもつかず寝てばかりいる男が、福の神のふりをして隣の村の長者の家に出向く。そこで男は長者にむかい、「隣り村にいる“三年寝太郎”をこの家の娘婿に迎えると、家はますます繁昌する」とお告げをする。長者はだまされ、男はその家の婿におさまる。


三年寝太郎は「悪知恵」により、労働の対価ではない形で、富と妻を手に入れることに成功する。現代の感覚では容認しがたい事例だが、現実にもあり得なくはない。こうした不条理な展開も昔話だからこそ許容でき、また潜在的願望をあらわにするのだ。


しかし、「はたらきもの」という評価を多くの人から得て承認されること、そして知恵を働かせ、効率よく収益を上げる必要があるという認識は、現代においても通じるところがあるはずだ。

「恩返し」された人びと


日常的に「良い行い」をしている人物が、神や仏から「良い報い」を受ける、あるいは苦しみや困難から救われた動物が、「恩返し」に人間を援助するといった昔話も少なくない。こうした「報恩譚(ほうおんたん)」は、なじみ深いものだろう。


雪をかぶった石の地蔵に笠を差しかけた老人が、お地蔵さまから福をもらう(「笠地蔵」)、子どもにいじめられている亀を助けたところ、そのお返しに竜宮城へと誘われる(「浦島太郎」)などといったように、昔話ならではの展開がみられる。


動物による報恩譚では、このほかに狼、鶏、犬や猫などが、助けられたお礼をする。また、人間と結婚したり、同居したりする人間以外の配偶者が富をもたらす「異類婚姻譚」という形式も多い。鶴や狐が妻になり、人間の夫になにがしかのお礼をするというものだ。その代表的なものが「鶴女房」、「鶴の恩返し」としても知られる昔話である。


傷ついた鶴を助けた貧しい男のところに、美しい女が訪ねてきて、泊めてくれという。女はそのまま男の妻になり、機織りをはじめたところ、織った布が高く売れる。「機を織っているところを見てはならない」という決まりを破って、男が機屋をのぞくと、鶴が羽を抜いて布を織っている。気付いた鶴女房は、そのままどこかへ飛び去ってしまう。


このあらすじに似た昔話や伝説は多く、鶴を泊めてお礼を受けるのが老夫婦の場合もある。


さらに動物の女が恩に報いるだけではなく、小さな生き物が夫になり、家を富ませる「田螺(たにし)長者」という昔話もある。


子どものいない夫婦が神に子授けを願ったところ、タニシを授かる。一人前になったタニシは馬を引いて働くようになり、親しくなった長者の娘を見そめる。タニシは袋に入れた米を持って長者の家に泊まりにいき、「大切なものだ」と米の袋を長者に預ける。長者は、「もし米をなくしたら、好きなものなんでもやる」と約束する。タニシは夜中になると袋から米をとり出し、娘の口の周りにつけておく。翌朝、タニシは米がなくなっていると騒ぎだし、娘の口に米がついていたので、長者は約束どおり娘をタニシにやる。タニシと娘が祭に行ったとき、タニシがカラスにつつかれて田んぼに落ちる。娘が泣いていると、タニシは立派な男の姿になって現れ、婚礼をやり直し、タニシは栄えて長者になる。

昔話の分類では、小さな動物の姿で生まれたものを主人公にする「異常誕生譚」のひとつである。しかもこの昔話のタニシは小さいだけにとどまらず、あまりにもみすぼらしい。しかしその外見にもかかわらず、長者を巧みにだますなど、知恵が働く。


また、恩返しを受けるには、受け手となる人が、基本的に無償で手助けを提供している。まずは利を考えず自分が善とする行動をしてみると、思いもよらぬ利益をもたらすこともあるということか。


ハンデに負けずに、知恵を絞って行動すれば、成功する可能性があるし、どんなに弱そうな相手でも、隠れた才能があるので見かけで判断することは愚かだということも言えなくもない。


「鶴女房」と「田螺長者」に共通していえることは、貧しさや身体的なハンデがあったとしても「出会い」というチャンスを見事にものにしている点である。


現代では、人や情報の「出会い(マッチング)」が至るところで行なわれ、そこで成功するものも珍しくない。昔話や伝説を参考に考えると、自分の立場や環境に気後れせず、相手を敬い、利益を優先しないような間柄を築くことが成功の近道なのかもしれない。

おごれるものは久しからず


報恩譚のなかにはささいな恩義に過分に報いる話や、一方的に動物が援助する話も少なくない。また昔話では、恩の受け手が、はたらきものや正直ものとは限らず、なまけものや悪知恵に長けたものが福を授かり、幸運を手に入れることも度々起こり得る。


また長者伝説においては、富貴や繁昌が恒久的ではないこと、ちょっとした油断やおごりから没落してしまうことを教える場合もある。その証しとして日本の各地には、かつて長者が住んでいたという屋敷跡や、黄金を埋めたと伝わる場所とともに、長者没落譚が残されている。


大和国(奈良県)の「滝野長者」は田があまり広く、田植えが終わらぬうちに日没となるので、金の扇で日を招き返したところ、米ができなくなってしまった。鳥取の「湖山長者」は、田植えの日に国じゅうの早乙女に植えさせても間にあわず、金の扇で太陽を差し招いて田植えを終わらせた。しかし水田は一夜で湖と化した。


秩父(埼玉県)に伝わる長者没落譚の結末は悲惨である。


長者の3代目が先祖の富貴を利用し、国じゅうの蕨を刈らせたが、日が暮れて日輪(太陽)を扇で招き返しても取り尽くすことができなかった。そこでなんども扇で招いたところ、そのたびに長者の家族がひとりずつ消えてゆき、ついには長者も屋敷もなくなった。


長者没落譚には、過酷な労働に対する対価が払われなかった側の憂さ晴らしや、願望が表されているのであろう。


現代においては「願望」にとどまらず、語り手が実際に相手を没落させてしまうことも珍しくない。ひとたび、おごり高ぶった経営者が労働者に対してブラック労働を強要すれば、その話は瞬く間に広がり、「没落」してしまうこともあることは万人の知るところである。おごれるものは久しからず。


またこれらのずる賢い行為を「悪知恵」ではなく「知恵」とするならば、誰も思いつかなかった「知恵」を用いて多くの富を得た話などと捉えることもできる。「三年寝太郎」になるべく、自動化やAIといった分野で富を得ることなども、現代のビジネスにおいては可能である。

昔話における「贈与」と「交換」


嘘つきが罪に問われず、幸せになる筋立ては、現代の感覚からすると理不尽で納得しかねるかもしれないけれども、昔話ではよくあることだ。しかし主人公が嘘つきであっても、弱いものと強いものが入れ替わり、貧しいものが富めるものとなり、騙されるものが富者や強者なら、そこにはカタルシスが生まれる。昔話の理不尽や不条理には、こうした効果があった。


さらに昔話には、経済原理としての「贈与」と「交換」の素朴なかたちをみることも可能である。


「贈与」は一般に、人に物品を無償で与えることを意味し、人に物品を有償で与える場合には、「売買・交換」などと呼ばれる。しかし、ある贈与行為に対して、受け手の方から贈り手側に、「返礼」としてなんらかの贈与が行われることも少なくない。例えば家に泊めてあげたり、苦難を救ってあげたりといった行為である。こうした場合には、結果的に交換が成立しており、最初にこちらが相手方に与えた行為は、無償の行為ではなかったと考えることもできる。


また、無償か有償かも明確に区別できるものではない。返礼を受けたとしても、贈り手の方が返礼を全く期待していなかった場合、それは無償の行為だったと考えることもできる。


昔話の経済行為や経済活動を、そのまま現代のビジネスに結びつけることは難しい。しかしながら、不条理な筋書きが伝承されてきたのは、勧善懲悪では割りきれない現実を反映しているからにほかならないのだ。不条理な世を嘆き、怒るだけではなく、「昔話」や「伝説」として世に残してきた先人の努力そのものこそが、子孫である私たちの経済活動を発展させてきたともいえるだろう。


いずれにしても民俗社会の人びとも、経済的成功に多大な関心を寄せてきたこと、また成功を得るための一筋縄ではいかない困難について注意を払ってきたことが、今回例に挙げた昔話からだけでもうかがい知ることができるのである。

取材協力:畑中章宏

 

大阪府大阪市生まれ。作家、民俗学者。平凡社で編集者としてキャリアをスタート。近年は、民俗、写真などを対象に日本人の心性史を描き続けている。代表作に『柳田国男と今和次郎』〈平凡社新書〉、『災害と妖怪』〈亜紀書房〉、『蚕』〈晶文社〉、『先祖と日本人』〈日本評論社〉、『天災と日本人――地震・洪水・噴火の民俗学』〈ちくま新書〉、『21世紀の民俗学』〈KADOKAWA〉がある。
Twitter:https://twitter.com/akirevolution

 

(編集:はてな編集部)