はたラボ

あの日見た『エヴァ』と『トップをねらえ!』が『般若心経』に愛と青春を感じさせてくれる(寄稿:稲田ズイキ)

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「生き方や職業を決めるきっかけとなったバイブルを紹介してほしい」と言われた。


ここはお坊さんとしては『阿弥陀経』*1や『選択本願念仏集』*2などのバイブルを紹介する絶好のチャンスなのだが、そう人生は仏教一つで語れるほど簡単にはできていない。


僕は今、僧侶である。でも5年前は僧侶ではなかった。ただお寺に生まれたというだけの、ごく普通の男の子が、22歳のとき、いわゆる出家をしたのである。


それまでは、みんなと同じようにそれなりに学校へ通ったり、恋をしたり、眠れない夜には布団をギュッと強く握りしめて寝たりした。その頃は、仏教の「ぶっ」の字も知らないような普通の男の子だった。


むしろ仏教は嫌いで「ファッキン諸行無常*3」を心の中に掲げていた。アニメの最終回を見終えた後、むなしさに泣いていたら、母親がいつも「諸行無常よ、終わるのは仕方ないじゃない〜」と言ってくるのが許せなかったからだ。


そう、仏教がなんとなくいいなと思えるようになったのは、つい最近のこと。過去を振り返ったら、酸っぱい青春を共に過ごしてきたバイブルが山のように存在するのだ。

あの日見た『トップをねらえ!』はロマンの形をしていた

高校生の頃、くすぶっていた。「何かやりたい!」のにできない気持ちや、「何者かになりたい!」のになれない気持ちが、ジリジリと身を焦がしていた。


ぶつけ先がないエネルギーは、とってつけたように軽音楽部に入ってエレキギターを鳴らしたり、地元の農道を自転車で爆走したり、家の木魚をポン!と叩いたりしてごまかしていた。そんな高校2年の春に出合ったのが、『トップをねらえ!』というSFロボットアニメである。


『トップをねらえ!』


兄が見ようと言うので、TSUTAYAの「5本で1000円キャンペーン」を駆使してビデオを借りた。どんなアニメなのか、前もってWikipediaで調べてみると、キャッチコピーには「炎の熱血友情ハードSF宇宙科学勇気根性努力セクシー無敵ロボットスペクタクル大河ロマン!!!!!」と書かれてあった。シンプルに「ふざけてる」と思った。タイトルも、『エースをねらえ!』と『トップガン』からとったものらしく、僕は半ばうんざりしていて、ギャグ漫画を見るのと同じくらいのテンションで、鑑賞を迎えることになった。


OVAで全6巻、約3時間後の出来事である。僕の顔面はぐちょぐちょになっていた。僕だけじゃない。いつも弟に対してクールをきどっていた兄の、その月のように乾いた目にも涙がたまっていたのを覚えている。


予想の斜め上どころか、大気圏を突き抜けるくらいの大感動がその3時間には詰まっていたのだ。その晩、熱に当てられてか、僕ら兄弟は『トップをねらえ!』のあれがすごいだの、あれが良いだの、布団を並べて深夜まで語りあった。


『トップをねらえ!』は当時の僕にとっては格別にメッセージ性の強い作品ではなかった。キャッチコピーにあるように「勇気・根性・努力」くらいのものを受け取っただけかもしれない。それでも、ただ意味もなく、涙が流れた。悲しいからではない。ただただ、熱かったからである。


作中には、合理的ではないものがたくさん登場する。鉄ゲタを履いてのトレーニングや、ロボットの腕立て伏せ、組み体操など、ツッコめばキリがない。でも不思議なことに、最初はギャグのように見えるそんな不合理なシーンが、物語が進んでいくと、いつの間にか熱量を帯びて見えてくる。ツッコミを入れること自体が無粋なものとして感じられるようになってくるのだ。


それが合理性を超えた「ロマン」と言うべきものだと言語化できるようになったのは、つい最近のこと。不確かなものをどれだけ信じられるか。合理性というバイアスを超えて自分の信念をどれだけ貫くことができるか。僕の中で『トップをねらえ!』はそんなロマンの象徴なのである。


『トップをねらえ!』を見るたびに、初めて見たときの自分が思い出される。「どうせ俺なんか」「結局、人生は妥協の連続だもんな」と自分自身に下手なツッコミを入れていた自分だ。冒険に出ようとしない自分への保険であった。


「ボケてもいないのにツッコんでんじゃないよ!」


ガンバスター(登場ロボット)の無駄な合体シーンや、ノリコ(主人公)の無駄な必殺技名の叫びはそう言って(心の耳から聞こえた心の声)、僕のロマンを呼び覚ましてくれたのだ。


そう、それから僕は「『トップをねらえ!』のような誰かの心を熱くする物語を書きたい!」と思うようになり、夢を脚本家になることと定め、高校3年の面談で先生に思い切って打ち明けたのだ。


「僕は脚本家になりたいんです!」


言えた。ようやく自分が本気になれたもの。自分の人生にもやっと挿入歌『トップをねらえ! 〜Fly High〜』が流れ始めた……と脳内物語はつかの間。間髪入れず、先生は「まず1本書いてから言いなさい」と言った。


威勢良く「書きます!」と返事をしたのは良いものの、人生はそう甘くはなかった。それからその1本を完成するまでに再びジリジリと身を焦がし、結局2年の歳月がかかることを当時の僕は知らない。

あの日見た『新世紀エヴァンゲリオン』が痛みと孤独を肯定してくれた

キャンパスライフとは恐ろしいもので、あれだけ天高く掲げた崇高な夢も、シンプルな煩悩に取って代わられてしまうのである。


「彼女が欲しい」


それ以外の感情を大学1、2年で持ち合わせた覚えはない。一体どんな顔をして、実家の仏像を眺めていたのだろう。実に健全な大学生である。


でも気持ちとは裏腹に、恋はうまくいかなかった。おかしな三角関係になったり、付き合っても6時間でフラれたりして、徐々に自信は地の底にまで降り立った。


半ばやけくそで始めたサークル「ロボットアニメ研究会」で通算3度目の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を観賞した時の話である。劇中の物語の根幹となる一大プロジェクト「人類補完計画」を見て、これは自分の気持ちを代弁してくれていると強く確信したのだ。


『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』


「人類補完計画」とは、簡単に説明すると、全人類を一つの生命体にしようとする計画である。これによって、他人と自分の境界線がなくなり、個体としての自我も失うことになる。つまり、「自分」が消えるのだ。


アニメ史上、群を抜いて気弱な主人公と言われている碇シンジ君が、自己の殻に閉じこもって他人を拒み、他人からも拒まれ、この世界に絶望したときの感情がトリガーになって、人類補完計画はスタートする。『Komm, süsser Tod(甘き死よ、来たれ)』という甘美な劇中歌が流れ始め、人がだんだんと溶けていく。アニメ史上に残るトラウマシーンとも言われているが、当時の僕は完全に人類補完計画とシンクロしていた。そうそう、これでいいのだ!と。


「さぁ、無へと還ろう!」と曲が歌い出す。自分なんて元からなければいいのだ。そうすれば夢を見なくても済む。自分が嫌な自分も消えて、あの日、自分をフッたあの子も消えて、あの日志した夢も忘れて……。そうだ、全て無くなればいいのだ!


気分はラスボスである。掃除したての教室にバケツの水をこぼした時のような罪悪感と爽快感に包まれた。しかし、そんな気持ちの裏で、頭の片隅にはこの物語のラストがちらついていたのも確かだった。


シンジ君は人類補完計画を否定する。たとえ、他者から拒絶される恐怖に晒されようとも、自分や他人が存在する世界を選び直し「僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから」と言うのだった。


何度聞いたか分からない名セリフであったが、その時は得体も知れない涙が流れていた。隣で見ている部員になんと思われたって構わない。やりきれない気持ち、ジリジリと身を焦がしていた自分、目先の煩悩にとらわれるもその願いさえも叶わないこと、その痛み自体をこの物語は肯定してくれたのだった。


どれだけ他者から拒絶されようが、思い通りにならない自分に嫌気がさそうが、そんな痛みこそが自分の生きている証拠であり、他者を愛せる証拠である。エヴァンゲリオンのラストはそう言って、孤独を肯定してくれたのである。


それ以来、他人と分かり合えず「もうやだ!」と全てを投げ出したくなるとき、『Komm, süsser Tod(甘き死よ、来たれ)』が脳内に流れ始め、「そうだったな」とふと思い返る。シンジ君は葛藤の末に、そんな苦しみすらも尊いものだと思ったのではないだろうか。僕もその痛みを愛してみようと思うのだ。


だから、もうフラれても絶望することはなくなった。「重い」と言われてフラれようが、半年間の交際を「忙しくなった」の一言でフラれようが、ビクともしない。全てを受け入れる仏の心が備わったのである。


いつからだろうか、友達からは「ポジティブおばけ」と呼ばれるようになっていた。大変光栄だけど、おばけも実は痛みを感じていることだけは覚えていてほしい。

『般若心経』はまだバイブルとは認めない

結局、僕は脚本家にもなれず、寺を継ぐために修行をして僧侶になり、実家にいてもやることはないので広告代理店のサラリーマンになり、なぜか今フリーランスで僧侶としてコンテンツを作る仕事をしている。屋号は「煩悩クリエイター」。今年には本も出る予定だ。ちなみに彼女はいない。


キャリアとは摩訶不思議なものである。10年後の自分がさまざまな仕事している僧侶になっているなんて、「脚本家になりたいんです!」と言っていたあの頃の自分にはまったく想像もつかないことだろう。


でも、どんな僧侶になっていても、『トップをねらえ!』や『新世紀エヴァンゲリオン』がつくってくれた自分は、まだ変わらずにここにある。人生を共にしたバイブルは、自分そのものの生き方になっていることに気付いたのだ。


例えば、『般若心経』*4で一番有名な「色即是空 空即是色」という言葉。簡単に説明すると、「全ての存在は実体がない(色即是空)」、「実体がないが存在している(空即是色)」と訳することができるが、僕はこの一節に、エヴァンゲリオンのシンジ君を感じる。

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アジア圏で広く利用されている、お経を再生する念仏機(通称「ブッダマシーン」)。最近欠かさず持ち歩いている。

さらには、『般若心経』のラストを締める「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯諦菩提薩婆訶(いわゆる「ぎゃーてーぎゃーてー」)」。この一節だけは漢訳されておらず、古代インド語のままの、いわば意味をも超越したフレーズであり、これはもう僕からしたら『トップをねらえ!』の「バスタービーム」であり、『シン・ゴジラ』でいう「無人在来線爆弾」であり、意味や合理性を超えた雄叫びにしか聞こえないのだ。


おかげさまで、『般若心経』に愛と青春を感じるクレイジーな僧侶になってしまったわけだが、その感性は、これまで自分が歩んできた人生そのものなんだろう。


何者にもなれなくて独りぼっちだったあの夜も、欲しいものが手に入らずやきもきした夜も、全てがつながって「今」という景色を見せてくれている。あんなに「ファッキン諸行無常」だと思っていたが、今自然と「諸行無常」の意味が分かる気がする。それはバイブルが、人生が、自分の「今」をつくってくれているからに他ならない。


『般若心経』は僕のバイブルになりうるのだろうか。そう言い切るにはまだ日が浅い気がする。これから先、何かもっと大事な場面で再び出合う予感もする。まだバイブルとは認めてやらない!


まだまだこれからの人生、たくさんの作品に出合う。皆さんも、たくさんのバイブルに出合えることを祈っている(合掌)。

著者:稲田ズイキ

僧侶。1992年、京都の月仲山称名寺生まれ、副住職。同志社大学を卒業後、デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、煩悩タップリな企画をやる「煩悩クリエイター」として活動中。幻冬舎・集英社のWebマガジンでコラム連載など文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」などリアルイベントを企画。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。 Twitter:@andymizuki


(編集:はてな編集部)

*1:『阿弥陀経』:仏教の経典の一つ。阿弥陀仏という仏の実在や、その国である西方極楽浄土の姿などを説く。

*2:『選択本願念仏集』:建久9(1198)年に法然が著した書物。浄土宗の根本宗典。

*3:諸行無常:あらゆるものは移ろい変わりゆくことを意味する、仏教の根本思想の一つ。

*4:『般若心経』:仏教の経典の一つ。仏教の根本概念である「空(くう)」の思想がたった262文字に凝縮されている。